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同窓生から(過去の投稿記事)

私たち(35期生)の「昨日・今日・明日」(5)

(フレッシュアップ25年度版より)

①詩や短歌、小説や脚本。言葉をつむぐことがただ楽しくてしかたなかった頃。高校の文化祭で、古事記を題材に書いた脚本を素敵な舞台にしてもらったことも大切な思い出。文章で何かを創りだす仕事へのあこがれを抱いていた。
②大人になって、書く喜びはいつのまにか引き出しの奥に。けれど最近は、歴史好きな家族との旅や心惹かれる本との出会いの中で、あの頃の想いが呼びさまされる気がしている。
③おばさんでも、おばあさんになっても、文学少女のときめきを心に持ち続け、古代が舞台の恋愛物語をいつか書きあげることを夢みて…。

吉田(佐藤)友香

実は、中学生の時代のことというのが、一番思い出すことが難しい時期と言えます。それまで子供心に思い描いていたことから一歩大人になりつつ、まだ大人として実現していくべき「夢」のようなものにはなりきらない時代というか…。いまは10年勤めた鉄道会社も辞め、フリーランスのアナウンサー(喋り手)としてやらせてもらっていますが、そんな自由な生き方の素地が、もしかしたらその過渡期のような中学生時代に、培われたのかも知れません。これからも、そんな心持ちを大切に、出来ることを精一杯に生きて行けたらと思っています。

坂田 博昭

①コンピュータの可能性((記憶力と計算力の弱さを機械が補ってくれる未来)をひたすら信じていた(今考えるとほぼ予想どおり)。
②母校(香川大学医学部)で医療と情報の学際分野である医療情報の研究をしている(医療と情報の「合わせ一本」だったので、臨床で一本勝ちしている医者にちょっと羨望)。
③世界中の医療の情報を統合し、飛躍的な医学の進歩を目指している(が、国際規格の策定はとてもハードなので、本当は早く引退して学生時代の夢だった人工知能の研究をしたい)。

横井 英人

①早く「お母さん」になりたいと思っていました。
②弁護士を経て、三児の母となり、五年前から、宮崎で農家として野菜を作っています。人も気候もあたたかい宮崎は、居心地がよいだけでなく、里山暮らしには目から鱗が落ちるような発見が満ちていて、とても刺激的でもあります。
③里山での暮らしの中で、次の、そのまた次の世代に引き継いでゆける社会のあり方を模索し続けたいと考えています。

川上(高野)ゆり子

①暇さえあれば、本を読んでいた気がします。(漫画を含む。)あわよくば売れっ子作家になんてことも夢見ていたかも。
②某私立の女子中高で、国語科の教員をしながら、文芸部というクラブの顧問をしてたりします。(かつての夢を生徒にとは、爪の先ほども考えてはいません。)
③定年後は、晴耕雨読が夢です。

加藤 秀行

私たち(35期生)の「昨日・今日・明日」(4)

(フレッシュアップ25年度版より)

①医師になって病気で困っている人を助けたかった。
②地方都市で外科医をしている。深夜に呼び出されたりすると正直きついと思う時もあるがふと見上げたきれいな空に輝くたくさんの星をみると頑張ろうと思う。
③いままで約20年仕事をしてきてあと20年するともう引退の時期だ。今は仕事をしなくなった時の自分が想像できないがせめて妻を「夫原病」にしないようにと思っている。きつくても自分がやりたかった仕事をしている。そういう意味では幸せだと思う。

平野謙一郎

中学生の時の夢は、はっきり覚えていないが多分、野球選手か何かのスポーツ選手になりたいという、夢だったような気がする。現在は父の仕事を継いで歯科医師をしているが、四年前から趣味でトライアスロンを始め海外遠征も含め、年に何レースかに参戦している。昨年からはその中でもロングのレースIronmanに参戦し、トレーニングはキツイながらもゴールした時の達成感が忘れられず、将来的にもライフワーク的に楽しんでいきたいと思っている。

久保耕一

①外国航路の船医、科学者(漠然と。お茶の水博士のイメージ!?)。
②人類学者、大学教員。20年ほどアフリカ、ニューギニアなどの伝統社会で調査をしています。中学時代の夢が(形を変えてはいますが)かなっているのかな?
③ 最近は大学院生をフィールドに連れて行くだけで後ろ髪を引かれる思いで帰国しています。1ヶ月でいいからフィールドで過ごしたいと夢想中。多くの若者に異文化フィールドワークの楽しさを伝えたいです。

山内太郎

①通訳になって人と人を繋ぐ仕事がしたかったです。どんなに異なる思想の人達でも心通わす事ができるスーパー通訳になりたいと思っていました。
②主婦で男の子二人の母親です。主婦業の傍らで英会話教えています。若い頃に通訳も少ししましたが、しどろもどろ通訳で全く向いていませんでした。
③絵の勉強をして、世界中旅して絵を描きたいです。異なる場所に共通してあるいいものを見て、描いて、伝えられるようになりたいです。

古谷(橋本)美紀子

①具体的な将来のヴィジョンは描けていませんでしたが、中学に入学して大好きな友人が増え、視界がぱあっ~と開けていくような感じがしてワクワクしたのを覚えています。
②よいことも悪いこともなるほど糾える縄の如く巡ってきますが、12歳で知りあった友人と今だ腹を割って語り、エールを送り合えていることは、何事にも代えがたい幸運だと感じます。
③というわけでこの先も末永くお付きあいいただき、一緒に歳を重ねていきたいです。

定池(岡村)優里

私たち(35期生)の「昨日・今日・明日」(3)

(フレッシュアップ25年度版より)

①世界中の人と心から話し笑う地球語を作る(作文にも書いてました♪)
②フラワーデザイナー
③世界中に花と笑顔を届ける♪

秋山(小島)月世

①夢は大空をかけるパイロット!と言いたいところだが、残念ながら夢と呼べるものはなかった。中学時代は何も考えず、ひたすら楽しい日々であった。
②まったくの偶然で今現在国際線パイロットの機長となり、世界中を飛び回っている。地に足がついていないのは中学時代と変わらない?
③これからも、安全運航第一。人との出会い一期一会を大切にしていきたい。

中井創介

①厨二病的な幻想に基づく「ミュージシャンで税理士」
②現実と折合をつけた「ミュージシャンで税理士」
③生涯現役を体現するような「ミュージシャンで税理士」

坂下朋之

①強きをくじき弱きを助ける、正義の味方
②見る人がわくわくするような立体造形を追い求めて作家活動しながら、時々社会人
③しあわせになる元気食卓アドバイザー。(中医学を勉強中)

清水佐和子

①まだ幼い頃に百人一首で遊んでいて歴史が好きになり、中学校の授業を1つのきっかけとして歴史や社会について考えるようになりました。
②思いがけないご縁があって出身高校で毎日歴史の話をして過ごしています。
③私が教えていただいたことをそのまま高校生に教えたいわけではありませんが、私の先生方が私に対してそうしてくださったように、高校生の歴史や社会に対する興味・関心を触発できる教員になりたいとは思っています。

安井崇

私たち(35期生)の「昨日・今日・明日」(2)

(フレッシュアップ25年度版より)

①青かったけど、漠然と起業したいとは思っていたかな…。
②起業して18年目になる。やりがいとともに、今生じている種々の変革及び変化のスピード、不安定要因の多様化・重層化にトップマネジメントの困難さを痛感している。
③それでも94歳のリタイアまで、自ら心豊かに成熟するため、熱き魂で常に学び続け、成長と革新を継続し、第一線で社会貢献し続けたい。

北川 忠幸

①中学時代の夢…考えていなかったですね。スポーツは好きで、バスケをしていました。観ることも好きで、サッカー・ラグビー・野球・・・西武ライオンズのファンでした。
②母になり13年、2人の子供の成長が楽しみな生活をしています。
③野球で頑張っている長男・長女。目標を達成するために本人たちが努力をするなら、私は精一杯の協力をしようと思っています。子供たちの目標達成が私の今の夢です。ちなみに…長男の目標は甲子園出場、そしてプロになることです。

市川(末広)久美

①家は書道家だが継ぎたくない。夢は子どもに関わる仕事か、映画「インディー・ジョーンズ」と同じ研究がしたい。
②キリスト教系大学の史学科に入学するも谷中の僧侶が教授の東洋史研究室に。卒後は希望通り保育園勤務するも結婚で居宅介護支援事業所と接骨院経営。
③やっと書道が少し好きになるお年頃に。今年、日本デザイン書道作家協会会員となる。夢は生涯、書道家。

大須賀 美智

①中学校であか抜けた同級生がたくさんできて、夢を持つというより背伸びして現実に追いつこうとしていた気がします。ただばくぜんと「社会のためになることをしたい」と思っていました。この頃からサイクリングが趣味でした。
②大学卒業まで弁護士になるつもりでしたが、曲折を経て二〇〇七年にスポーツ自転車店を開業しました(東京・品川)。
③「ひとの役に立って喜んでもらうこと」が実感できる今の仕事を長く続けたいと思っています。

青山 宏康

①小学生の頃から推理小説とSF小説づけだったため、最初にあこがれたのは探偵。中学時代はアインシュタインのような宇宙物理学者になるのが夢でした。
②出産退職以来、子育て一筋。夫の転勤にくっついて家族で新しい土地を転々とするうち、多少のことでは動じない図太さを習得しました。
③ずっと「未知との遭遇」を続けていきたいものです。壮大な話ではなくても、わくわくする未知は身の回りにいくらでもありますからね!

福家(鈴木)玲子

恩師(杉山先生)と共にクラス会(杉の子会)<13期C組>

2014年5月10日(土)の「杉の子会」が無事終わりました。当日は気持ちのよい五月晴れで、杉山先生と元生徒で計13名でした。最初に数名で根津美術館を訪れ、青山・川上庵でクラス会を、、二次会は8名で、懐かしく楽しいひと時でした。

杉山先生のお話は、最初は右足の少し故障のお話で、しかし暖かくなり足を引きずることもなく会場の3階まで上がって来た、とのいつもの明るい、暖かい、楽しいお話でした。また、竹早中学の新任の頃、山岳部の引率補助で槍ヶ岳に登ったお話があり、元生徒達は山登りの話でも盛り上がりました。

還暦を迎えてから、毎年行われているクラス会(杉の子会)ですが、引き続き3人の幹事を中心に開催して参ります。

<幹事:流田、大野、三嶋>


私たち(35期生)の「昨日・今日・明日」(1)

(フレッシュアップ25年度版より)
竹中を卒業して30年。かつての紅顔の美少年・美少女たちも立派な?社会人になりました。
そこで、同期の仲間たちに、①中学生時代の夢 ②現在の状況③これからの夢をテーマ ・一言を募集しました。
順風満帆、波瀾万丈さまざまな人生の来し方行く末に興味を持ってお読みいただければ幸いです。

竹中時代からの「自分探しの旅」の答えがまさかここスペイン、バルセロナにあったなど思いもよらなかった。ポジティブ思考を学び、どんな時にも陽気でユーモアを忘れない人々と共に20余年が過ぎようとしている。昼は夫の眼科クリニックの検査スタッフとして、夕方からは現地の人に日本語を教える仕事が日課になり、大学生と中学生になった子供達に後押しされ3年前からコーラスを始めた。「君は生まれ変わったんだよ。」結婚当初、夫の言葉に戸惑った日々がなつかしい。「再生」を実感できる今、真っ青な空と穏やかなコバルトブルーの地中海に癒されながら私は旅を続けたいと思う。

三浦由加里

①中学生の頃、絵描きになりたくて、図書館で「画家になるには」という本をかりた。
②水道橋の都立工芸高校でWEBデザインやら陶芸やらを教えている。
③引退したら、漆器やら陶器やらを、体力が続く限り作り続けたい。

森中香奈子

①中学生の頃の私は、まだまだ幼くて具体的な将来の夢は無かったように思います。本や映画やテレビを通して様々な職業があることを知っては、憧れを抱くことの繰り返しでした。
②気がつけば専業主婦歴18年。そろそろベテランの域に達しているでしょうか。子供は中学生と高校生になりました。将来の夢を少しずつ描き始めた様子です。③そんな私の将来の夢。それは、子供達が夢を持つことの出来る環境をつくり、出来る限り応援し続けることです。家族にとっていつまでも最強の応援団長でいたいと思っています。

並木(高橋)由希子

昭和50年卒同窓会 50歳の君たちへ

(フレッシュアップ25年度版より)

50歳の君たちへ平成24年9月17日に竹早中学校昭和50年卒の同窓会が行われました。この年に、ちょうど同窓生が50歳を迎えるということで開催となりました。そして、今回は学校で当時の先生方に「50歳の君たちへ」という題で授業をしていただくことになりました。残念ながら校舎は変わってしまいましたが、現在使われている教室に74名もの元生徒が、昔通り男女市松模様に座り授業を待ちます。

キーンコーンカーンコーンという昔と変わらぬ懐かしいチャイムで同窓会が始まりました。
今回、三輪先生、西原口先生の出席はかないませんでしたが、新海先生、池田先生、山村先生の出席をいただきました。
初めに、前年一月に逝去された鈴木栄治先生と、すでに他界してしまった同窓生に対して黙祷が捧げられました。
そして、当時3年A組の担任だった新海先生の授業から始まりました。先生が教壇に立たれると自然と起立・礼が行われました。(事前に打ち合わせしましたが、現在も号令はないとのことです)

出席簿を用意しておき、先生に出席を取っていただきました。一人一人名前を呼ばれ、出席者は元気よく?返事をしていきました。欠席者、他界された元生徒もすべて名前を呼んでいただき、みんなで改めてクラスメートを思い出しました。
例の調子(といっても35年ぶりですが)の楽しい授業も、予定通り予定時間をオーバーして新海先生の授業は終わり、次はB組池田先生の番です。

先生はプリントを用意されていました。そのプリントを昔のように前から後ろへと配っていきます。そして、そのプリントはロミオとジュリエットの一文で、なんでも池田先生の最後の授業は必ずこの教材を使うことにしていたのですが、我々の代はなぜかそれができず、先生としても心残りだったとのことです。

そして音楽室に移動、と言いたいところですが、ピアノのある部屋に移動しました。
三時間目はC組山村先生で、授業は校歌斉唱です。例によって発声練習してからの斉唱となりました。歌詞カードを用意していたので歌詞はわかりましたが、あまりに懐かしく声を少し詰まらせていた元生徒もいました。
最後に三輪先生、西原口先生の「50歳の君たちへ」のメッセージを朗読し第一部はお開きとなりました。
その後、場所を東京ドームシティのレストランでアルコールを交えての懇親会へとなりました。 50歳ということで大きなバースデーケーキも用意され、終始和やかな会もお開きになりました。

我々の代に、現在竹早中学校で教師をしている森さんがいることで実現した学校での授業ですが、皆あの懐かしいときに一瞬でも戻れたのではないかと思います。

故鈴木榮二先生 追悼1期生 小川 壽夫

(フレッシュアップ平成23年版より)

六十余年のお付合い 鈴木榮二先生を悼む

鈴木榮二先生の訃報が入ったのは、今年の元旦であった。「えっ」という驚きが頭の中を走った。われわれ一期生は、毎年、誰かが先生と接していたから、またいつでも会えるものと思い込んでいたのだ。

 思えば六十余年、長い長いお付合いであった。これだけ深い師弟関係というのも、そうないのではないか。大学に入り就職し熟年に達する。一人一人の成長・行動をずっと見守ってくださった。死まで見届けてもらった者もいる(「大場秀夫君のご逝去を追悼する」同窓会報平成二十一年)。われわれ仲間うちでは「エイジ、エイジ」と呼んでいた。友だちのような感覚である。わたし自身、家庭教師先を紹介していただき、その縁で出版社に就職し満足する仕事をすることができた。わたしの現在あるのは先生のおかげである。

 先生はよく、附属中学の教育方針を立てるのにいかに苦労したか、力をこめて語られた。われわれは「またか」という顔をして聞いていたが、これは大変失礼なことであった。六三制の出発は教育改革の中心にあり、いわば戦後民主主義の根幹を担っている。そして当時の教育現場に混乱がなかったわけではない。

 どうも一期生は特別にいい思いをしたようだ。上級生がいなくて自由奔放に駆けずり回り遊びまくった。みな仲が良かったし、今でも会えば気楽に話ができる。最期に先生は、葬儀はどうしてもわが同級の生家「西信寺」で、と言い残された。享年九十二。戒名詠情院高覚教榮居士。

32 期生の医師たちが語る医療最前線!』(4)

きれいな手術で白内障を治す(フレッシュアップ22年度版より)

本郷由紀子(旧姓・國富)

竹早中学校での3年間はかけがえのない時間でした。在学中に母の死に直面した私を支えてくださった先生方、友だちの存在の大きさは決して忘れられるものではありません。

附属高校を経て1984年に千葉大学医学部に入学。「器用さを活かして眼の不自由な人たちのために尽くしたい」と眼科に進むことを決意し、卒業後は東大眼科の医局に入局しました。東大病院で1年半の研修を終え、91年から現在まで19年間、三井記念病院に勤務しています。専門は白内障手術です。

白内障は目の中の水晶体というレンズが濁り、視力が低下する病気です。原因は様々ですが、ほとんどが加齢によるもので、日本でも人口の高齢化に伴い年々増加しています。目薬もありますが、濁った水晶体をきれいにする効果はなく、手術が唯一の治療法です。

手術は水晶体を包む数十ミクロンという薄い膜を残し、中身の濁った部分を超音波で砕いて吸い取り、その中に眼内レンズを挿入します。顕微鏡を使った極めて繊細な手術です。三井記念病院では世界最小の1.8ミリの創口から手術を行います。超音波は独自に開発したプレチョップ法を用い、従来30分以上かかった手術を4~5分にまで短縮しました。痛みの強い注射による麻酔もやめ、点眼麻酔だけを用います。術後はすぐに見えるので、眼帯もせずに、ほとんどの方が日帰りで手術を受けられています。

患者さんの要求が高くなっている昨今ではありますが、充分に満足が得られる治療だと思います。この新しい手術法を学びたいという海外の学会からの要請を受け、一昨年は香港で開催された世界眼科学会や、北欧・アジア・中南米での国際学会で、国際招待演者として教育講演を行う機会を得ました。

昨年だけで1630件の白内障手術を行い、日本の女性眼科医では最多件数と報告されましたが、数ではなく、すべての患者さんが喜ばれたことが誇りです。「夜間の車の運転が怖い」「ゴルフボールの行き先が見えない」と1.0に近い視力があっても手術を受けられる方もいれば、全く見えなくなるまで白内障を放置し、車椅子で来院される方もいます。そんな患者さんが術後に見えるようになったことを喜び、感謝の言葉を聞く時は、この仕事を選んで本当に良かったと思います。

私は働きながら、3人の子供を出産しました。体力的に辛い時期もありましたが、きれいな手術で白内障を治したいという強い気持ちが私を支えていました。時には子供たちに淋しい思いもさせましたが、一緒にいられる時間は思う存分の愛情をそそぎました。子供たちが成長し、今では私を応援してくれるようになりました。とても幸せなことです。

32 期生の医師たちが語る医療最前線!』(3)

家族が認知症になったら !?(フレッシュアップ22年度版より)

飯村東太

防衛医大在校時代を含めて14 年間、各地の自衛隊病院でお世話になった後、2000年4月に長野県松本市に移り住みました。松本市内の民間 精神病院の勤務を経て、現在の安曇野市の篠崎医 院豊科診療所に開設とともに勤務し、現在7年目となります。

診療所での主な仕事は週5日の外来診療の他に、認知症デイケアの診察・管理、特養ホームの回診・指示出し・産業医活動、訪問看護への指示出しや週3日のオンコール勤務(自宅などで待機し、呼び出しがあれば出勤)などです。ほかにア ルバイトとして、関連病院での週1日の日勤勤務と夜間当直勤務があります。受け持ち患者さんに関するカンファレンスや外部から委託される仕事もあり、年々自由になる時間が少なくなるのは否めません。

近況はこれくらいにして、認知症についてお役に立つような話ができればと思います。近年ものすごい勢いで高齢化が進み、介護殺人、高速道路の逆走事故、失火からの火災、詐欺の被害など認知症がらみの話題はことかかない状況です。

皆さんは家族が認知症になったら、まずどうしますか?かかりつけの医師に診てもらいますか?

認知症をきちんと診療できる医師は意外と少ないと思います。CTやMRIを撮るどころか、短時間の問診で、「年齢相応ですね。様子を見ましょう」とか「アルツハイマーでしょう。今はアリセプトという薬を飲ませるしかありません」などと言われる場合は要注意です。認知症のいかなる状態であっても、またいかなるステージであっても、アリセプトは万能薬で精神状態への副作用もないようなことが言われていますが、ごく軽度の意識障害を伴いボンヤリしているような方には、投与すると突如として「せん妄」と呼ばれる幻覚や妄想を伴うような興奮が生じるなど、対処困難になることがあります。同様に高齢者への安易な睡眠薬や抗うつ薬の投与も危険なことがあります。

どんな病気も早期発見・早期治療が鉄則ですが、いまだに精神科の敷居は高いのが実情です。初期に来られる方は少なく、認知症の周辺症状(いわゆる様々な問題行動)がひどくなり、家族で対応できなくなって、地域の保健師やケアマネージャーなどの勧めで、ようやく受診に結びつくケースが大半です。地域でいい医療機関を探すコツはアンテナを高くして、広く口コミを参考にするのが一番だと思います。

32 期生の医師たちが語る医療最前線!』(2)

胃の大敵「ピロリ菌」について(フレッシュアップ22年度版より)

入江康裕

現在は足立区加賀で「いりえクリニック」を開業致しています。「ピロリ菌」の研究で学位を取得致しました。

「ピロリ菌」という言葉はテレビなどで最近、よくお聞きになることと思います。胃の中に感染する細菌で、胃炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胃がん、胃リンパ腫などの胃の病気から、青あざが全身に出来る特発性血小板減少性紫斑病や慢性湿疹等の、全身の病気の原因にもなります。

主に幼少期に口にする水に関係するものから感染するといわれており、長い間、胃の中にいる事で炎症を起こし続けます。その結果、胃の粘膜は菌の攻撃に耐えられず、萎縮や「腸上皮化生」という胃がんになりやすい環境を作ってしまうのです。50歳代以上では80%以上がピロリ菌に感染しているといわれます。

感染を調べる方法としては、血液・尿・便・呼気・内視鏡による組織検査や、ウレアーゼという酵素の検査があります。健康保険ではピロリ菌除菌療法が胃かいようや十二指腸かいようなど特定の病気に限って認められているため、全ての人が健康保険で調べられるわけではありません。しかし感染がわかれば、除菌することで大きなメリットがあると思われます。

除菌は1種類の胃酸分泌抑制剤と2種類の抗菌剤を1週間服用する事で行いますが、薬を飲めば菌が死滅するとはいきません。現在、一般的に行われる除菌療法は6通りありますが、除菌薬を飲む前の服薬確認や、除菌療法中に併せて飲む、例えば血圧や高脂血症の薬などを確認してから飲む薬を選定します。

状況により、その他の薬を併用したり、一時的に常用薬を減らしたりして、体にかかる負担を減らし、除菌効果があがるように工夫します。除菌前に飲んでいる薬によっては、効果が落ちて除菌しにくくなる場合があるので、専門医に相談して処方と管理を受けた方が望ましいでしょう。

一度除菌に失敗すると、除菌しにくくなります。また、除菌薬服用後は一時的に症状が悪くなる事があるため、通常10ヶ月間程度胃酸を抑える薬を飲みます。ピロリ菌は胃に感染する生き物ですから、一度死滅すれば再感染しない限り胃の中に戻りません。ただし菌が胃の中に感染していた後遺症として、除菌後にも胃がんになる事があるため、年に一度は内視鏡検査をお勧めします。

同窓生の皆様が健やかに過ごされます様、お祈り致しております。

32 期生の医師たちが語る医療最前線!』(1)

脳卒中に対するカテーテル治療(フレッシュアップ22年度版より)

吉田陽一

東京都大田区にある荏原病院は脳卒中治療に力を注いでいる病院の一つです。ここで脳卒中患者さんに対するカテーテル治療に取り組んでいます。

脳卒中には迅速な診断と、適切な治療を速やかに行うことが大切です。第一歩は脳卒中が起きたと疑ったら、すぐに治療できる病院に連絡し受診することです。

脳卒中は何らかの原因で脳の血管がつまる「脳梗塞」、高血圧などで小さな血管が破綻する「脳内出血」、脳動脈瘤(りゅう)が破裂する「くも膜下出血」に大きく分類できます。このうち、くも膜下出血の原因となる脳動脈瘤に対するコイルを使用した治療、脳梗塞の原因となる頚動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)に対してステントを使用して拡張する治療が、カテーテル治療の2つの大きな柱です。

脳の血管の壁がコブのように膨らんだ状態が脳動脈瘤です。くも膜下出血は治療により、約半数の人が元の生活に戻れますが、4分の1には後遺症が残り、さらに4分の1の人は亡くなります。脳ドックなどで偶然に発見された破けていない動脈瘤でも、70歳以下の健康な人で5ミリを越える大きさの動脈瘤には、治療が必要と説明しています。

脳動脈瘤に根本的な内科治療はなく、根治するには外科的な治療が必要です。開頭して動脈瘤に金属で出来たクリップをかける手術(クリッピング術)と、動脈瘤の中に柔らかい金属で出来たコイルをつめることで破裂を防止する手術(脳血管内治療)があります。残念ながら、全ての動脈瘤をカテーテルで治療出来るわけではありません。それぞれの治療法に長所と短所があり、患者さんの状態、動脈瘤の大きさ、形、部位により治療法を選択していきます。

頚動脈狭窄症についても説明しましょう。頚動脈の内腔が狭くなると脳にいく血流が減少し、血液の流れが乱れることで生まれた血のかたまりが、脳の血管に詰まって様々な症状を起こすのです。50%以上の症状を伴う狭窄、また、たまたま指摘された病変でも80%以上の狭窄があれば、血管を切開して狭窄の原因となっているものを除去する手術が必要です。手術に対して何らかの危険因子を持つ人には、狭くなっている部分を風船で拡げ、金属の網状の筒(ステント)を留置する方法(頚動脈ステント留置術)を行います。

脳卒中の治療後には、高血圧、肥満、高脂血症、糖尿病、喫煙などの危険因子を減らすため、生活習慣を見直し、頑張りすぎないライフスタイルを心がけることが大切です。

今後も脳血管内治療が安全に確実に行えるよう、日夜研鑽を積んでいきたいと思います。

13期同期会の報告

13期生の皆様へ (2010年7月)

去る7月10日(土)午後、母校・竹早中学校に於いて平成22年度同窓会が開催されましたが、同日夕刻、ホテルグランドヒル市ヶ谷に於いて13期生の同期会も開催されました。皆様ご存知のように、現在同窓会の会長と副会長の大役を献身的に務めて卒業生と母校の為にご尽力頂いている古谷顕史郎さんと三嶋明さんは、お二人とも13期卒業生です。今年は、このお二人の力強いサポートを頂いて有志数名が協力し、久しぶりの同期会を準備することが出来ました。

4クラスの担任のうちB組の梅津先生とC組の杉山先生がご出席くださいました。A組の諸橋先生とD組の坪倉先生そして数名の同期生の方々が既に他界なさったことは大変残念なことでしたが、約50名の同期生が出席し旧交を温めました。

3~4年前に還暦を迎えた生徒達ですが、お二人の先生のご用意くださった『おみやげ』を頂く人を決める為に真剣にジャンケンをしたり、当日名司会を務めてくださった三嶋さんの細やかなご配慮とアイディア溢れるプログラムに乗せられて和やかに楽しい時間を過ごしました。

80歳近くになられた両先生は、今も変わらぬ「誉めて育てる」温かなまなざしで約50年前の生徒達にお誉めの言葉や思い出話を語ってくださり、又ご自身それぞれお元気に年を重ねてこられた秘訣などを教えてくださいました。幾つになっても先生と生徒の関係に変わりはありませんでした。

また卒業後の約50年間を個性豊かに精一杯歩んできた同期生の代表数名によるスピーチにも同感や激励の温かな拍手がおくられ、多感な中学生時代に同じ時間と場所を共有できた素敵な仲間達を自分のことのように誇らしく喜び合いました。

ご出席くださった皆様と返信葉書で近況をお寄せ頂いた皆様に感謝致しますとともに、今後のご健康を心からお祈り申し上げます。

13期同期会呼びかけ人一同

13期同窓会グループ
13期同窓会グループ
13期同窓会挨拶
13期同窓会挨拶

三角枝里佳 メゾソプラノリサイタル29期 三角映子

ピアノ: 三ッ石潤司
日時: 2008年10月15日(火)19時開演(18:30開場)
会場: 王子ホール
入場券: 4000円(全席指定・税込)
曲目

第1部:夜の歌 First Half Night Songs

  • ベルリオーズ:「夏の夜」より“ヴィラネル”、“バラの精”
  • フォーレ:月の光、ノクターン
  • ベッリーニ:優雅な月よ 全曲

第2部:ゲーテの詩による歌曲とオペラ Second Half Songs and operas on poem by Goethe

  • 「ミニヨン」“Mignon” 全4曲
  • 「ファウスト」“Faust” 全3曲
  • 「ウェルテル」“Werther”
問合せ先: コンサートイマジン TEL 03-3235-3777
チケットお取扱い:

コンサートイマジン TEL 03-3235-3777
チケットぴあ TEL 0570-02-9999
王子ホールチケットセンター TEL 03- 3567- 9990

東京学芸大学附属竹早中学同窓生の皆様へ林健太郎

私は現在オランダ王立熱帯研究所での修学中(熱帯医学の学位修得済み。現在国際保健の修士課程を修学中です)でありますが、東京学芸大学付属竹早中学同窓生の皆様に緊急でお願いしたきことありまして、乱文乱筆ではございますが文をしたためている次第にございます。

5月初めのミャンマーでのサイクロンの被害は皆様もご存じのことと思います。私はこの度、所属している日本の災害医療NGO、HuMA(Humanitarian Medical Assistance、人道災害医療支援会)の要請を受け、5月15日にAmsterdamを発ち、6月22日の現在に至るまでミャンマーにて救援活動をしております。現地の被害は相当なもので、死者、行方不明者は150,000人を超える大災害です。また雨期の始まりの被災は、洪水による二次災害をもたらし通年より2~3か月長引く10月頃まで続くと予測されています。また被災地の大半はマラリア、デング熱といった蚊が媒介する致死的な病気の流行地帯であり、現在すでにサイクロンの影響で家を失い、一時的な仮設テントで生活を強いられている被災民がデング熱の脅威にさらされております。実際昨年の2倍の数の患者が報告されており、WHOもデング熱の危険宣言を出し、それの対応に追われているところです。

私の所属するHuMAは現地の私立病院Pun Hlaing International Hospital(写真1)と提携し生き残った被災民の援助活動をすることに決定いたしました。私は国境なき医師団でのミャンマーを含めた様々な災害紛争地での経験(写真2,3 私のCVや国境なき医師団のホームページ等を参照にしていただければと思います。)、及び熱帯医学、公衆衛生、国際保健の知識を評価され、Pun Hlaing International Hospitalが擁する医療チームのMedical Coordinatorとして招聘されました。いまだ混沌とした緊急状態が続く状況の中、大きな必要性があるため、私はこれをVolunteerとして引き受けることといたしました。災害医療や熱帯医療、また地域医療の経験の浅い医師達に教育を施し、医療品の管理、そしてUN及びWHOと協力しながらデング熱、マラリア等の感染状況の調査等について支援することとなりました。Pun Hlaing International Hospitalの医療チームは、高度医療病院での経験豊富な医師、今回の災害を受けVolunteerとして集結した現地の医師、そして研修医(90%強)と看護師で構成されています。しかし経験豊富な医師たちを含めこれら全ての医師達はこれまで災害医療、小船を使った移動診療の経験がなく、また熱帯医療に関してもその知識は長い間の政治的不安定から最新の教育を受けることができなかったため古く、既に5月中に緊急の要請があり80名のMedicalStaffに対し教育を行い、新たなVolunnteerのために継続を決定しております。(写真4)その上こういった災害時、熱帯医療に必要な医薬品の知識が欠けているため、医薬品の選定、梱包、輸送等の管理及び指導も始めております。今後チームの疲労を見てRotation等も考えねばならず、仕事は重要かつ膨大です。

先にも述べましたが、デング熱の大量発生のためすでに多くの被災民がその犠牲となっており、HuMA及びPun Hlaing International Hospitalチームの担当する地域では4人の子供が亡くなりました。まだデング熱の季節的なピークを迎えていない今でこの状態であることから、今後より多くの人が犠牲になる可能性があります。被災地に入った診療チームのメンバーも既にデング熱に罹患した者もおり、救援する方も覚悟が必要な状態です。

この10月まで続く生死を分ける状況は、一般に言われているような復興回復期とは程遠いというのが現状です。サイクロンによって家族を亡くした人々、特に今回のサイクロンで両親をなくした子供たちの心のケアも急務になっております。写真にて(写真5)紹介する子は死を覚悟した両親が木箱に子供を入れ濁流の中に流し、幸運にも生き残った人に引き上げられました。逆に死を覚悟した両親が子供たちをつぼに入れすべて沈んでしまったという話もあります。こうした人々の心のケアが必要なのはわかりきっていることなのですが、国際援助の手が届かない今ほぼ全てのことができません。現地の留学経験や臨床経験が豊富な多くのPsychologist達はすでに取り組みを始めていますが、施設も何もかも吹き飛ばされ、流された今、屋根の飛んだ僧院や教会で行おうとしています。せめて雨期の中の雨風をしのげる最低の場所が必要ですが、資金、物資の流れが国際的に滞っている今どうしようもありません。学校もすべてなくなったため、Pun Hlaing International Hospitalではこういった心のケアの活動の中心となる、一時的な学校のようなものの建設も予定しています。

HuMA及びPun Hlaing International Hospitalのチームは直接被災民を支援しています。未だ緊急状態という現状の中、上記に述べたように多くの良心をもった現地の人々が被災民に対して援助の手を差し伸べようとしているのですが物も資金もない今、苦しんでいる被災民に対しほんの少しのことしかできないというのが現状です。私達のGroupは様々な制限のあるミャンマーという国で被災民に対して直接の援助のできる数少ない団体です。(写真6)にもかかわらず、我々の様なGroupまでも、ミャンマー政府の国際的な孤立のため、国際的に援助が受けられず、被災民に対して十分な援助ができないという現実があり、大変苦しい思いをしております。どうか被災民の救援のため私達のGroupに少しでも援助をしていただければと思います。

ご理解とご支援の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
もし義援金等集めている団体、またどこにDonationすればいいか迷っている場合等ございましたら、是非HuMA(URL:www.huma.or.jp)にご連絡くだされば幸いに存じ上げます。

林健太郎
特定非営利活動法人災害人道医療支援会 医師
Kentaro HAYASHI
HuMA-Pun Hlaing International Hospital Cyclone Nargis Medical Relief Team
Medical Coordinator

写真1

私の以前のミャンマーでの医療活動と記事(Medical Activity In Myanmar)
写真2

下の記事は私がMyanmarで活動していた際、読売新聞の取材を受けた時のものです。
写真

Medical Activity MSF
国境なき医師団でのNigeria Mission。麻酔医、救急医として活動
写真3

Sri Lanka, ジャフナ半島Point PedroでのMission。昼夜を問わず砲弾の飛び交う中で、救急医、麻酔医、及びMass Casualty Plannerとして活動。
写真

イラク、クルド自治区、スレイマニアの外傷火傷センターにて、救急医、麻酔医、集中治療医として活動
写真

Myanmar Medical Training
下記の写真は先日ミャンマーに訪れた際
被災地に派遣されるDoctorに対してTrainingを行った時の様子です。
写真4

隣の彼は国境なき医師団の活動にて共に働いていた同僚ラテ医師で彼に
通訳そしてマラリア診断キットのデモンストレーションを行ってもらいました。
写真

このような若い医師たちが被災地に向かい医療救援活動を行います。
すでにこの中から40名の医師が被災地に向かい現在も医療活動を続けております。
写真

この子供は上述の通り死を覚悟した両親に木箱に入れられ幸運にも生き延びた子供です。
悲惨な写真も多くありますが、この場では控えさせていただきます。
この子以外にも両親を亡くした子は大勢います。またこの子供たちが、
サイクロンにすべてを奪われ、マラリア、デング熱、コレラといった
危機的な環境の中雨期が終わるまで生き延びられる保証はどこにもありません。
写真5

Relief Activity
これはNational Staffに託し、被災した人々に食糧を配給している様子です。
写真6

学芸大附属竹早中学校13期C組杉の子会の皆様へ

(2008年4月)

皆様お元気でそれぞれの新しい年度をスタートされたことと思います。

去る3月29日に開催のクラス会には16名の方々(杉山先生・男性8名・女性7名)のご出席を頂き、共に楽しい時間を過ごすことが出来ました。今回は、昨年ご出席になれなかった方も3名加わってくださり、心から懐かしく約30年振りの再会を喜び合いました。杉山先生には今年もまた素晴らしい思い出のエピソード(バスケット部の顧問になられた頃の秘話など)をお話して頂き、昔の生徒一同は感動しながらお聴きしました。

今年は「桜の花の季節に」と企画しましたら見事念願どおりの満開、最良の花見頃となり、二次会の後、赤坂アークヒルズまで歩いてスペイン坂と桜坂の見事な桜並木でお花見を満喫してからの散会となりました。そして来年もまた、こんどは「ツクシが顔を出す頃に」(2009年3月7日か14日あたり??)クラス会を計画できたら・・・と再会を願ってお別れしました。

皆様に記念の写真をお送りいたします。(三浦 實さん、撮影のご労を有難うございました)出席者のスピーチでは、お嫁さんやお孫さんの楽しい話題も出る年代になりました。また、誰も皆それぞれに家族・健康・仕事・その他、多少の悩みや問題も抱えているようでした。けれども中学校生活を共有した思い出が元気と笑顔をくれたようですね。皆さん、いいお顔をしています。杉山先生のお話からの教訓「よく考えれば何か道はあるはず」にも励まされて、「抱えている問題」は「取り組む課題」へと方向転換できたような気がしました。

というわけで、ご出席の皆様、葉書に近況を寄せてくださった皆様、どうも有り難うございました。残念ながら今年はご欠席だった皆様、来年は是非お会いできますように、楽しみにしています。

杉山先生とクラスの皆様のご健康を心からお祈りしています。

今回の幹事:中島宣雄・三嶋 明・流田 直・西村芙沙子

「道草」の愉しみ28期 高木 直人

(フレッシュアップコミュニケーション18年度より転載)

仕事を通じて知り合った友人・知人にはバイク(自転車)好きが多い。単なる好きモノから業界有名人、一昼夜かけて6〇〇㎞を走破する猛者に元全日本選手権チャンピオンまで、さまざまなメンバーが揃っている。彼らの影響を受けて、自分専用のバイクを購入したのが数年前。とはいえ彼らのような本格派とはちがい、至ってノーマルかつリーズナブルなバイクだ。なにせ連中のバイクときたら、大卒サラリーマンの初任給クラスから、ちょっとした自動車が買えてしまうぐらいの代物。(プロは別として)「妻にはちょっと(金額は)言えない」というのが彼らの本音である。

以前は普段使い以外ではたまに通勤時に乗るぐらいだったが、ここ数年、週末には自転車で「ポタリング」に出かけることが多い。ポタリングとは一般的にはあまり馴染みのない言葉だが、ベストセラー『ハリー・ポッター』シリーズの主人公の名前と同じ綴りの「potter」のING型で、自転車でブラリと出かける散歩のこと。「ゆっくり行く」とか「ぶらつく」という意味があるそうだ。脚の向くまま、気の向くままに走っては、風景を眺めたりお店を覗いたりして「道草」を愉しんでいる。

住まいが大田区にあるので、都心方面や埠頭の海浜公園など、行き先には事欠かない。その中でも特に気に入っているのは多摩川の川辺を走るコースだ。川風の心地よさ、視界を遮るもののない広い空、そして河原でのコーヒーブレイク。それに加えて川沿いのところどころで途中下車しては、街なかのあちこちを観て回るのも楽しいルートで、そんなところに魅かれて、かなりの頻度で多摩川に向かっている。

自宅を出て、第一京浜を西に約10㎞で多摩川の六郷橋。ここを右折して『多摩川サイクリングロード』を上流に遡れば、約8㎞で中原街道と交差する丸子橋に到着する。

四月初旬、この丸子橋のそばの『桜坂』に立ち寄った。ここは2000年に福山雅治さんが歌って大ヒットした同名の曲のモデルになったところ。当時は大勢の福山ファンや観光客が詰めかけて、自転車はおろか歩くのもままならない状態だったが、最近はかなり落ち着いてきている。とはいえ、桜の季節。大勢の花見客でにぎわっているのは、いずこの桜の名所と同様ではある。

坂を上がり、道に架かっている赤い橋を渡る。橋の中央部で立ち止まり、桜の枝を見上げたその時、ふと私たちが「桜並木」と呼んでいた小石川の坂を思い出した。

竹早中学卒業生の皆さんにとっては旧聞に属することとは思うが、春日通りの小石川5丁目から坂下の千川通りの(小石川)植物園前までのこの坂の正式名称は『播磨坂』。今は『播磨坂桜並木』の名で、桜の名所として知られている。全長は400mほどなのに、道幅は約40mもあるこの坂は、もともとは月島から赤羽橋までの『環状3号線』計画の一部。当初の計画では三つ目通り、言問い通りから小石川を経て外苑東通りに続く、都内を環状に巡る道路になるはずだったそうだ。

在学時代、文京区の実家から竹早中学まで(正規の通学経路はバス通学だったのだが)、桜の季節には決まってこの坂を歩いていた。晴れた朝には花びらが青空に映え、とても美しく思ったものだった。

私も含め、ほとんどの竹早中学の生徒は自宅と学校とでそれなりに距離があるので、こういう「道草」を愉しむ機会に恵まれていたように思う。(校則的にはいかがなものか? は別として)卒業生の皆さんにも多かれ少なかれご経験があるのでは、とも。

私の場合、まっすぐ家に帰ることあまりなかったように思う(福岡先生、ごめんなさい)。下校時にも、よくこの坂の上のパン屋さんで飲み物を買って(ごめんなさいっ!)、すぐそばの竹早公園のベンチで休憩したり、隣の小石川図書館で本を読んだりしていた。

ほかにも真砂町の玩具店でプラモデルを物色したり、茗荷谷のハンバーガーショップや後楽園のパン屋さんで買い食いをしたり。小石川植物園も格好の道草ルートだった。園内の池でザリガニ釣りに興じていて、気がついたらあたりは真っ暗、というようなこともあった。釣りといえば、柳町商店街にほど近い千川通り沿いに屋内の釣堀があって、大きなコイが釣れた時には嬉しくて家まで持って帰り、あわてて水槽を買いに走ったこともあった(この釣堀は随分前に閉店して、寂しく思った記憶がある)。

自宅近くまで戻ってきていても、そこから足を伸ばして池袋、大塚、巣鴨界隈の店を覗きに行っていた。池袋では『新栄堂書店』や『芳林堂書店』といった大きな書店で立ち読みすることが多かった。大塚には職人肌のおやじさんがやっているジーンズショップがあって、ジーンズを好みの形にカスタマイズしてくれるので、よく通ったものだ。巣鴨には今で言う「ディスカウントショップ」ふうのお店があって、何時間いても飽きない場所だった。

別段、特別な「悪さ」をした憶えもないのだが、私の道草癖はこの頃からのものなのかもしれない。徒歩が自転車に変わっても、街なかをぶらつく愉しみに変わりはない。

七月一日には、母校で同窓会が開かれる。時間があれば懐かしいあの坂を、久しぶりにぶらついてみたいと思っている。(在学時にはなかったと思うが)坂の上には「竹早」という名の由来を書いた看板が立っているはず。たしか江戸時代『箪笥町』の「箪」の字を上下に分けて「竹早」とした、というようなことが記載してあったと記憶している。ここ何年も行っていないが、今行けばきっと新しい発見もあることだろう。「道草の愉しみ」のタネは、ちょっとしたところにも転がっているものだから。

想いあふれて~タケハヤの娘27期 坂下 健司

(フレッシュアップコミュニケーション17年度より転載)

酒の席での与太話ならともかく、同窓会の会報に、思い出の恩師も友情も校庭の泰山木もさておいて、ひたすら同級生の女の子たちのことばかりを書き綴るというのは、いささか気恥ずかしくもあり、自分でもどうかなとも思わないではない。とはいえ、それが想い溢れるがままのものであるなら、それはとても自然なこと。たとえ、それが他人にはどのようなものに映ろうとも。

それは入学も間もないころ、おそらくは新クラスの編成の時だったように思うのだけど、誰かがふと後ろからポンと僕の肩を叩いたのを感じたのです。振り向きざまに、目に飛び込んできたのは、前髪を額に下ろした―ボブ・カットとでも言うのでしょうか―しゃれた髪型のAさんの顔。彼女の真正面からまっすぐ見据える視線に思わず目が合い、たじろぎかけた瞬間、彼女のつぼめた口がほころび、そこから「坂下クン!」という呼び声が飛び出した。自分たち男のものとは全く違った一段高い音、しかし子供の声のような薄っぺらなものとは違う質感を持ち、その中には、鼓膜をなでるような響きがあった。いやぁ、驚いた、本当に。心臓が止まるなんてものではない、どこか体の外に心臓がふっとんだと思ったくらい。えぇ、それしきのことで?と思われるかもしれないが、そのころの僕には、同年代の女性とが自分に、しかも、相手の顔が視界いっぱいに広がるような至近距離から話しかけてくる、そんなことは全くの想定外。しかも肉体的接触(!)まで伴って。どうして驚かずにいられますか?閃光のような驚愕と一瞬の恍惚、そして・・・しかし、僕の記憶はそこで途切れます。一体、その時、僕はどんな顔でどんな反応をしたことやら。

Aさんにとって、たまたま前に座った男生徒に肩をたたいて声をかけるぐらいは、特にどうということのないごく通常の日常些事でしかなかったはずです。ところが、当時、そんな彼女たち―同級生の女の子たち―の何気ない小さな所作ひとつひとつが、その都度、ちっぽけで未熟な僕の心を揺さぶり、膨らませ、そして萎ませていました。“おはよう”というBさんのたった一言のあいさつは、僕の心を成層圏にまで跳ね上げます。一方で彼女のいたずらっぽい目つきは、こちらの心の底までも見透かしているようでありながら、同時にそんなことを全く意にも介さないかのようでもあり、僕を魅せると同時におおいに戸惑わせたものです。そして、時として彼女たちはたとえ何もせずとも、そう、ただそこにいるというだけで十分でした。校庭の陽光の中で立ちつくすCさんとDさん、無邪気にお喋りに興じるふたりのすらりとした艶やかさは、饒舌で知られた僕の口を塞ぎ、ただ、ひたすら僕の目を文字通り“奪い”、何か崇高なものさえ感じさせたものです。あのころ彼女たちは人間以上の、まさに妖精だったのかもしれません。

当時、男生徒はしばしば共通に憧れる女の子のことを話題にし、その魅力を語り合ったりしたものです。Eさんは絵に描いたように明るく活発、一方で、誰に対しても気安く分け隔てなく付き合えるので、同級生の中にたくさんのファンを持っていました。もちろん僕もそのひとりで、仲間の男生徒たちが彼女を話題にし始めると、それに聞き耳をたてていました。たいていの場合、話の中心となるのは、彼女の外見の可愛さとか、親しみやすく優しい性格です。ところが、僕にとって彼女の最大の魅力、それは性格とか外見よりも、実はその声色でした。この年代の女の子だけが持つ高音の甘酸っぱさと、それとうらはらの、しっかりとした落ち着きと優しさ。そして、彼女が喋る時、中音域になるとその声に僅かにビブラートがかかり、それが彼女の柔らかな息吹を運びます。そう、楽器で言えばアルト・フルートの音色。ところが、不思議なことに、そんな彼女の声を話題にするものが誰もいません。僕は奇妙な優越感を感じました。なぜなら、じぶんだけが誰にも知られていない彼女の美点を知っているような気がしたものだから。

彼女とは高校も一緒だったこともあり、二十歳ちかくまで親交があったのですが、大学入学も間もないある日、声が少し変わったのに気が付きました。おそらく喉をからしたのでしょう。音域が少し低くなって、声質が若干ハスキーになった。例えて言えば、アルトフルートがアルトサックスにでもなったと言えばいいのかな。もちろんそれは依然としてとても美しい声であり、今になって思えば、彼女が大人の女性に変わりつつあった、ということだったのでしょう。しかし、やはり僕には残念だった。何かが変わって無くなったんだ、と実感したことを覚えています。自分だって変わっていたのに、何かをなくしたのは彼女でなく自分であったかもしれないのに、そんなことは思いもよらなかった。なんて馬鹿な奴、と、今でこそ思いますけど。

その後、社会に出てから、私は数年間をある異国で過ごすことになります。それは、職業上の海外赴任とはいうものの、心情的には逃亡、あるいは亡命に近いものでした。ある時期から、色々な事情で自分の生まれ育った“ここ”に違和感しかもてなくなり、とにかく“ここ”から逃げ出し、過去を振り切りたくてこの異国に来たからです。熱帯の異国は風物や習慣の違いにもかかわらず、異邦人を暖かく受け入れました。私はほとんど、“ここ”での過去を捨て去ることもできるのではないか、と錯覚したほどです。ところが、そんな、異国のある日、かつての妖精のような彼女たちが私の夢に現れたのです。夢の中でも、かつての日々と同様に、私は彼女たちを遠くから眺めるだけです。何とか、声を掛けようとするのですが、一言の声を発する間もなく、彼女たちは足早に私の前を通り過ぎ去ってしまいます。もちろん、こちらには目配せひとつ送るわけでもなく。私は追いかけることもできず、立ち尽くすだけです。それでも、夢から目覚めた後、こんなにも他愛の無い夢にも関わらず、私は久しぶりにとても幸せでした。熱帯の早朝は本格的な酷暑を前につかの間の涼しさをたたえています。マンゴーの木の深緑色の葉が、まるで故国の初夏の若葉のようでした。その先の柔らかな空が“あそこ”に、違和感など持つことの無かったあの過去の日々の“あそこ”につながっているように思われたのです。

時はさらに過ぎ去り、肉体の重みなどないかのように軽やかに舞い踊る妖精たちはいなくなり、かつてゴムまりのように跳ね上がった私の心も、もはや空気の半分くらいが抜けてしまったかのようです。ただそれでも時たま、なんのはずみか、かつての妖精たちを夢見る事があります。そしてそんな目覚めの朝の数十分、心はかつてのはりを取り戻すのです。

注:

  1. タケハヤの娘:有名な“イパネマの娘”という曲は美女をノー天気に歌ったと思われているが、本来の歌詞はけっこう暗い。
  2. 想いあふれて:やはりボサノヴァの名曲シェガ・ジ・サウダージ(Chega de Saudade)の邦題。原題の本当の意味は“思い出などもうたくさん”

同窓生の掲示板31期55年卒業 白石 英行

40歳になってやっと最近みんな時間が出来たみたいで、プチ同窓会を開いて幼なじみと意見交換をしています。まだ、参加していない人はbunkyo@mail.ne.jpまで連絡下さい!
16年のニュースとして、島田君が楽天イーグルの球団社長に就任しました。中学校時代を振り返りコメントを書いてもらいましたので投稿いたします。

株式会社楽天野球団 社長 島田 亨
RAKUTEN EAGLES  http://www.rakuteneagles.jp

「中学時代、いつも成績は学年でビリかブービー。それが定位置でした(笑)。全く勉強をしなかったから、当たり前といえば当たり前ですよね。なぜ意固地なまでに勉強をしなかったのか、大人になって考えたことがあります。それはとても単純で、「勉強をする目的が見つからなかったから」です。決して言い訳ではなく、本当に「理由」がないからやる気が全くおきなかったのですね。手前味噌ですが、高校に進学してからは常に学年で1、2番でした。大学でも学部主席で卒業をしました。なぜならば勉強をする理由が見つかったからです。私の両親は中学時代に離婚をしました。父が事業に失敗をし、大きな借金を背負ったことが理由です(たぶん)。しかしそれがきっかけとなって、私は自分の人生に明確な目標を持つことができました、「会社をやろう」と。全ての勉強(机上も社会勉強も)は、いつか自分が会社をやるために・・・と考えると、なんの苦痛もなく当たり前のようにできたのです。そして目標の通り、会社を作り、上場をし、36歳で一度引退をしました。その後3年間ほど新たな人生の目標を見つけようとフリーな時間を過ごしていましたが、縁があり50年ぶりの新規球団の経営をやることとなりました。今の私の目標は、新たな球団の選手たち(プロテクトから漏れた選手たちです)に、次なる明確な目標を持ってもらうためのサポートをすることだと思っています。竹早中学校の生徒たちにも常に明確な目標を持って将来を自分で描いて欲しいですね。」

三角枝里佳 メゾソプラノリサイタル~ジプシーの魂~29期 三角映子

三角枝里佳メゾソプラノリサイタル

二期会会員メゾソプラノの三角枝里佳は、近年オペラにおいては、椿姫、コジファントゥッテ、メリーウィドウ、カヴァレリアルスティカーナ等に出演し、歌曲、オラトリオの演奏にも力を入れていますが、今年は3月にはニ期会本公演「魔笛」で侍女3を、7月には新国立劇場鑑賞教室「蝶々夫人」にケートで出演させて頂き、活動の場をさらに広げるべく努力を続け、そして今年は10月25日に、初のリサイタルを開催することになりました。
今回は今まで暖めてまいりました作品の中から「ジプシーの魂~L’anima della zingara」と題し、かねてから是非初のリサイタルで演奏したいと願っておりました、ジプシーをテーマとした様々な作品を集めて演奏致します。
その言語体系からインドが源流と言われるジプシーは、インドから西に移動し15世紀にヨーロッパに辿り着き、当時彼らのエキゾチックな風貌や独特の音楽、ダンス等はヨーロッパの人々にとって珍しく、芸術家達を触発し、様々なジプシーをテーマとした芸術作品が生まれました。
今回は、ジプシーをテーマとした歌曲作品の中から、イタリア、フランス、チェコ、ハンガリー、ドイツと5カ国の名作曲家による作品を選び、その魅力を比較しながら演奏をしたいと思っております。つきましては、初のリサイタルに是非多くの方々にご高覧賜りたくご案内申し上げます。

三角枝里佳メゾソプラノリサイタル ~ジプシーの魂~

ピアノ:河原奈美
日時: 2005年10月25日(火)19時開演
会場: 王子ホール
入場券:4000円(全自由席)
曲目
ドニゼッティ作曲 ジプシー女
ビゼー作曲 歌劇「カルメン」よりセギデーリア
ドヴォルザーク作曲 ジプシーの歌 全7曲
* * * * * * * * * * * * * * *
リスト作曲 3人のジプシー
ブラームス作曲 ジプシーの歌 全8曲

問合せ先:イリスミュージック TEL 042- 577- 6519
チケット問合せ:東京文化会館チケットセンター TEL 03- 5815- 5452
王子ホールチケットセンター TEL 03- 3567- 9990

又は下記の私の連絡先まで御連絡頂けましたら、チケットをお送り致しますので何卒宜しくお願い申し上げます。
三角枝里佳 (29期 三角映子) e-misumi@tkh.att.ne.jp

3期竹早同期会を開催

3期竹早同期会画像

3期竹早同期会が、平成16年6月13日午後、
赤坂、全日空ホテルにある中国料理「花梨(かりん)」で開かれ、41名が出席しました。
幹事は、野口育子、田中、渡辺、野口幸雄、荒川。

会は、野口幸雄君の開会の辞、高柳君の乾杯に引き続き、西穂高にて遭難死した金子隆司君と島田敏彦君の慰霊祭に参加した、神宮さん、田部井君&山本君から報告がありました。みんなでご冥福をお祈りしました。

しばし歓談の後、遠方から来られた方々、田島君(札幌)、酒井君(大阪)、広部さん(神戸)から近況報告を頂きました。その後、野口幸雄君提案の「みんなの意見調査ゲーム」により、我々年寄り世代の思考方向を相互に認識しながら楽しい議論になりました。準備した問題の半数も処理出来ずに時間切れになり残念でした。
長いようで短かった約3時間の1次会が終わりましたが、素敵な料理が印象的でした。

2次会は、ほとんどの方が、同じホテルの32階にあるラウンジに集まり、更なる議論に花が咲きました。32階からの眺めも素敵でした。

参加者全員の写真は、同期生名簿とともに欠席者58名(同期生は121名で、逝去者15名、連絡先不明者7名)に送られ、喜ばれました。
次の同期会は来年6月12日(日)の予定です。
次回幹事は、鵜殿、小森、石井、堀田、宮田さんです。

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