同窓生から

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杉の子会(13Cクラス会)2018年度開催報告

5月12日土曜日の昼から銀座ライオン七丁目店で還暦から再開し12回目の杉山先生の教え子の会「通称 杉の子会」を開催しました。

当日好天に恵まれ先生を待つこと20分、ご自宅にかけた電話に先生がお出になられ、「ガ~ン」幹事は真っ蒼になりましたが、遠方故、急遽欠席となりました。出席者数人がお電話でお話しできました。直前にご連絡しなかった幹事の不手際を反省しました。

仲間が古希を過ぎ、家族の介護、子どもの苦悩等抱えている人もおりましたが、皆が健康管理のウオーキングや仕事、趣味や諸活動に没頭され、第二の人生を楽しんでいらっしゃいます。あと数年は工夫をしながらクラス会を継続したいと思います。

(文責流田 直)

杉の子会(2017年5月6日)の記録

雨模様だった予報も午前10時過ぎ頃から回復し、第1部開会の10時半には傘は不要になりました。地元に住む荻原さんの案内で5人は後楽園庭園を巡りました。入口付近の枝垂桜は葉桜になっていましたが見事でした。渡月橋を渡り清水観音堂跡に上り、水に映った円月橋から梅林を抜け、赤門へ。中央の池に浮かぶ蓬莱島周辺には鷺や水鳥が羽を休め、大きな亀がたくさん甲羅を干したり島に上ろうと首を延ばしていました。内庭を回って木曽川を経て1時間ほどかけて再び入口に戻って参りました。涵徳亭の入口近くには三嶋幹事長と第2部から参加の皆さんが集まっていました。

午後1時前から4時まで奥の別間で懇親会が始まり、85歳になられた杉山先生のお話を伺って近況報告をし合いました。この1年でそれぞれ慶弔がありましたが、健康が第一で杉山先生が毎日取り組んでいらっしゃるラジオ体操の話で盛り上がりました。16名の予定が15名でドキドキしましたが、遅れていらして下さり全員揃いました。同じ部屋で席替えをした2次会まで和やかに和気あいあいと進み、4時前に記念撮影をして来年の再会を願い門の前で別れました。今回参加した杉の子(杉山先生の教え子の略)は男性7名、女性8名でした。

(文責、写真 流田 直)

2017.5.23掲載

三期同窓会

(フレッシュアップ28年度版より)

四月十二日(火)九段のホテルグランドパレスで「傘寿を迎える記念クラス会」を開催しました。昼間で天気に恵まれたこともあり三十三名の多くの出席者で賑わいました。殆んどが今年八十才を迎える訳で、あらためて「良くぞここまで来たもんだ」と、皆がしみじみと実感した次第です。出席者の中には毎回のように姫路や大阪から駆け付けてくれる人、又続けて二十回近くも休まず出席している人が何人も居るのは嬉しいことです。着席で食事しながら、昔話や孫のこと、病気の話まで盛り沢山の話題で熱中している姿は中学校時代の面影を彷彿するものがありました。それぞれ同じ八十年の人生ですが、私にとっては竹早中学校時代が一番充実して楽しかったように思います。「仲良きことは美しき哉」と言う言葉のように、今なお仲良く付き合い、話合える友達を持てたことを心より幸せに思っています。友たちの健康と長寿を祈念して!

高柳良夫

2017.2.28掲載

平成27年同窓会総会報告

(フレッシュアップ28年度版より)

平成27年7月11日(土)の午後、竹早小学校ランチルームにおいて、平成27年度同窓会総会及び親睦会を開催いたしました。

暑い日差しの中、84名もの同窓会会員の方々にご参加いただきまして深く感謝しております。また手前味噌ですが、37期幹事の皆さん、協力ありがとうございました。

卒業以来会うというメンバーもいたものの、同じ学校を卒業したという共通項があるだけなのに、チームワーク良くできたのは不思議です。当日はポリネシアから特別に参加してくれた(ような)青木君の司会進行で、滞りなく進みました。オーガニックレストランからのケータリングの食事も好評でしたが、それ以上に好評だったのが幹事の石川さんご紹介のジャグリングです。校長先生からの有難いご挨拶もいただき、大成功で幕を閉じたものと確信しております。この後は場所を移動して37期の同窓会を開催し、2次会、3次会と朝まで続きました。このような素晴らしい竹早中学校の伝統がこれからも末永く続くよう心より願っております。

37期幹事 仲野一朗

2017.2.28掲載

杉の子会(13期C組)2016年の報告

杉の子会(13期C組)2016年

60歳還暦クラス会から毎年5月連休後の土曜日に開催している杉山先生とC組の仲間たちとのクラス会(杉の子会)、今年も5月14日に東大農学部内のレストラン「アブリボア」で行いました。例年15名程が集まりますが、今年は久しぶりに遠方から参加してくださった方もおり、和やかな昔話に花が咲きました。

第1部は午前中に小石川植物園散策、第2部はレストランでの昼食会でした。早いもので今年度は皆が古希を迎えます。杉山先生は毎年お元気なお姿でいらしてくださり、私たちに励ましのお言葉を掛けて下さいます。最後は門横の上野博士とハチ公の銅像前で記念撮影、来年の再会を誓ってお開きとなりました。

幹事団:流田・大野・三嶋
写真提供:丸井、文責:流田

2016.11.2掲載

杉の子会(13Cクラス会)開催報告

平成27年5月9日(土)に、13Cのクラス会(杉の子会)が開催されました。杉山先生は、ご都合が悪く、今年は欠席されました。
参加者は、14名でした。その中には、連絡先が不明だったのが最近判明した方で、久々に参加して下さった方もいらっしゃいました。 最初に、母校を訪問し、副校長の勝岡先生に新校舎(我々にとってはですが!)をご案内いただきました。校舎は変わりましたが、門正面のヒマラヤ杉や泰山木は懐かしかったですね。
クラス会は、中学の近くの中華料理屋で行われ、近況報告で殆どの時間が楽しく費されました。最近は、参加者も15名程度で、毎年開催の意味が問われている向きもありますが、幹事団としては「継続は力」を信じ進めて参ります。
今年は杉山先生がお見えになれず残念でしたが、また来年もこの時期(5月の連休後の土曜日昼から)にできればと思っております。

幹事団(流田、大野、三嶋)

2015.6.29掲載

総会担当幹事36期生の部屋

(フレッシュアップ26年度版より)

36期生のみなさんへ

西原口伸一(36期学年担任)

私が竹早中に赴任して、1年の入学式から3年の卒業式まで連続して学級担任を持ったのは君たちが初めてでした。それだけに愛着と思い入れがありました。アルバムを開くと、あの頃の君たちと過ごした頃の雰囲気がなつかしく感じられます。当時学年主任だった坪倉先生と居酒屋で呑みながら、君たちのことをいろいろと語り合ったものです。あの頃の若かった私は、今は亡き坪倉先生からたくさんのことを学びました。君たちは、仲の良い元気な、元気な中学生でしたね。
そんな君たちは45歳になるんですね。私は君たちと同じ年齢の頃、狭心症を患い3ヶ月間休職しました。当時の生徒・保護者・教職員の方々に多大な迷惑をかけてしまいました。体調の異変に気づいたことはあったのですが、自分の健康を過信していました。未来ある君たちにとって一番大切なことは、健康管理です。健康第一、忘れないでください。

琵琶湖畔で新たな生活

柴田俊和(36期学年担任)

竹早中学校を途中で退職して、はや6年経ちました。現在、故郷である滋賀県大津市の北の端にあるびわこ成蹊スポーツ大学という小さな単科大学で、スポーツの研究と保健体育の教員を養成する仕事をしています。
中学校の教育現場とは違って、大学では教員がやらなければならない仕事が山ほどあり(やらなくても誰も困らないことも多くあるのですが)、貧乏性の私にとっては、竹早中学校にいた時以上に忙しい生活になってしまいました。手間はかかったけれど、生徒たちと一緒にいろんな活動で汗を流したり、毎月1度は海釣りに通っていた竹早での教員生活を懐かしく思い出しながらこの文を書いています。31年前に担任をさせていただいた36期生の中には実に個性的で多才な生徒がたくさんいて、担任の2年間に多くの経験をさせてもらったなと苦笑しています。7月には30年ぶりにおじさん(壮年)・おばさん(熟女)になった皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。

三十年を振り返って

堀内(平原)知寿子

竹早中を卒業して、もうかれこれ三十年。気がつくと娘、息子も高校生。私は現在、アメリカのニューハンプシャー州に居を構えています。大学卒業後一年で結婚し、夫の留学に付き合って渡米したのが約二十一年前。その後、シンガポール、オーストラリアと移動し、二年ほど前に、子供達の生まれ故郷ボストンから車で二時間ほどの所に戻りました。
何せ海外が長くなり、竹早中のお友達とは本当に疎遠になっていますが、三年ほど前、嬉しい再会がありました。オーストラリアのキャンベラで一時大使館に勤務していた縁で、そこに配属された中、高時代の友人に再会しました。二十三年ぶりの再会でしたが、彼女の前髪を指でかく仕草が当時のままで、涙が出るほど感激したのを覚えています。
竹早中学校での三年間が私の人生に与えたものについて思いを巡らすと、ただただ楽しかった3年間の思い出が蘇ってきます。友達との交換日記、自分たちでメニューを組んだバレーボール部の練習、合唱コンクールに向けての猛特訓。放送室にこもって、友達と大笑いしながら聞いたスネークマンショー。藤森パンの「ユーフォー」。中島みゆきやオフコースがはやっていたのもこの頃。学期末試験のあとは、友達と長くおしゃべりするために池袋駅まで歩いたり。高校、大学時代は自分を模索しているうちに過ぎてしまった感がありますが、中学校時代は、自分があまり深いことを考えずにはしゃげた最後の3年だったと思います。
今は、子供達が自分のやりたいことを模索しながらいよいよ巣立つ頃で、私も再び、自分の時間を大切にするステージに入ってきたなと感じています。疎遠になってしまっている竹中の友人達との再会の機会も大切にして行きたい、としみじみ思う今日この頃です。

北九州から、みなさんお元気ですか

鈴鹿(後藤)佳南子

私は竹早のジャンパースカートの制服が大のお気に入りでした。あの夏服の少々奇抜な緑色さえも特別な制服に思えて大好きでした。実家の八王子近辺では誰も着ていませんでしたし、竹早の生徒であることをとても誇りに思っていました。ただもう少しきちんと勉強すべきだったのです。付属高校への進学は叶わず、思ったよりも早く友達との別れを経験する羽目になりました。休み時間に一緒にバスケをして楽しみ、屈託なく笑い転げた日はあっという間に過去のものとなり、自らが母校の竹早から遠ざかる寂しさを味わいました。ですから、竹早での中学時代を振り返った時、ノスタルジックな気分だけではすまされず、もれなく反射的に「反省モード」になってしまいますが、楽観的な私の人生の重要なターニングポイントだったのかもしれません。
今は福岡県の市立病院の内科に勤務医として働いています。
先日、同じ年齢でありながら既に教授になっている女性医師の講演を聞きに行きました。もぅ本当に恐れ入りました。
研究への情熱、日常診療の責任感、新しい治療薬の開発の夢がこちらにも伝わり、とんでもない仕事量に脱帽です。羨望の気持ちを抱きながら私は軽く落ち込みました。「人と比べても仕方がない。私に出来ることは何か?」スケールの大きな仕事や研究はしていません。外来や入院の診療業務に毎日明け暮れています。ただ有難いことに、頼れる上司と何でも相談できる同僚がいて医師不足の職場のわりには連携が良く助かっていますし、「慈愛」と「和」の精神を持つ仲間から多くのことを学びます。仲間って大切だとしみじみ思います。
竹早時代の「仲間」の同窓生のみなさん、お元気でしょうか?私たちも中年になってしまいましたよね。年をとりましたが、私自身はまだまだ学ぶ余地の多い人生を送っています。「気付き」を大切にしながらもう少し成熟したいですし、人に必要とされる喜びを忘れずに充実した日々を送りたいと考えています。

庭師と恩師と

小倉進二

実は中学時代の記憶が乏しい。頭に白いものが増え、お腹も出っ張ってくるにつれ物忘れも激しくなっているのだろう。わずかばかりの思い出をたぐると、一番に目に浮かぶのは午後になると前庭に現れる「竹中の庭師」の姿だ。
「あんたたち、ちゃんと掃除しなさいよね!」。水をまくホースで友達とふざけていると、決して長くはなく、決して細くはない足で蹴りを入れてくるのがグレート福岡(康子先生)だった。庭いじりが趣味のグレートが2、3年生の時の担任だったため、漏れなく庭掃除も我がクラスに回ってきた(のだと思う)。植木に適当に水をまいておけばいいから庭掃除は好きだった。よく怒鳴られたが、可愛がってもらっていると感じられる先生だった。卒業後、出していた年賀状がいつからか宛先不明で送り返されるようになった。以来、グレートの消息は不明だ、多分。
竹中には個性豊かな先生が多かった。「グッモーニング、クラ~ス」が今でも耳に残るジャパーニーズイングリッシュの原先生。なぜか「グーテンモルゲン」とあいさつしてから数学の授業を始めるツボセン(坪倉登先生)。シバセン(柴田俊和先生)のサングラスとソリの入った頭も懐かしい。
1年生の時、テニス部を希望したが、人数制限で入部できなかった。枠が余っていた体操部に入ったが、マットで相撲ばかり取っていた。そんな我々をシバセンは容赦なく試合に出場させ、10点満点で2・3点という脅威の成績を叩き出したのは私だけだった。早く辞めさせてくれと頼み込み、拾ってくれたのがニッパラ(西原口伸一先生)のサッカー部だった。
いかに校庭が狭くても、部活は生徒の希望を叶えてあげるべきだ。ということが言いたかったのではなく、ただただ感謝の念を伝えたい。少し大人になりかけた3年間を庭師ならぬ数々の恩師に見守られたおかげもあり、皆が今をきっとなんとか生きていると思う。

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